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スタートボタンを、また君と。

第5章:空白

物語のあらすじ (AI要約)一年半の灰色な空白。長い停絶を経て、不意に訪れた「寛解」の瞬間。
何もできなかった。 本当に、何もできなかった。 傷病休暇に入ってからの一年半は、あとから思い返しても、ひとかたまりの灰色にしか見えない。何かを頑張った記憶もない。成長した実感もない。前向きな決意もない。 ただ、時間だけが過ぎていった。 朝が来る。昼になる。夜になる。それだけだった。 眠れない夜が続いていた頃のような激しさとも、違う。完全に壊れ切って、そのまま動けなくなった状態。 何かをしなければと思う。でも、できない。焦りはある。罪悪感もある。このままでいいわけがないことも、わかっている。でも――動けない。 それが一番つらかった。 怠けているわけじゃない。休みたくて休んでいるわけでもない。むしろ、働きたかった。社会に戻りたかった。でも、戻れる状態じゃなかった。 会社勤めも、もう嫌だった。 いや――怖かった。 通勤。組織。人事。あのズレ。全部飲み込まされる、あの感じ。もうこりごりだった。また電車に揺られて、また無理をして、また何かを飲み込んで、また壊れる。そう思うと、戻るという選択肢は、なかった。 じゃあ、どうする。 その問いだけが、ずっと頭のどこかにあった。 何もできない。でも、何かしなければならない。 この矛盾だけが、残っていた。 一年半。短くはない。でも、何も起きなかった。何も進まない。何も変わらない。それが――いちばん残酷だった。 人は、強い絶望には耐えられることがある。でも、薄く長く続く空白には、削られる。 俺の傷病期間は、まさにそれだった。 何者でもない。役にも立っていない。稼いでもいない。作ってもいない。前にも進んでいない。ただ、生きているだけ。 それが、苦しかった。 それでも、心のどこかには、まだ小さく残っているものがあった。 働きたい。誰かの役に立ちたい。社会と切れたくない。 その火は、消えていなかった。ただ――あまりにも弱くなっていただけだった。 傷病期間の後半、TMS治療を始めた。 正直、これで変わるとは思っていなかった。でも、通った。一ヶ月、ほぼ毎日。何かを信じていたわけじゃない。これしかなかった。それだけだった。 ある日の帰り道。電車に乗っていた。いつも通り、座っていた。そのはずだった。 気づいたら、寝ていた。 一瞬だったと思う。でも、確実に、寝ていた。 その瞬間――ああ、眠れる。 それだけだった。でも、それで十分だった。 あの状態から。どんな薬でも眠れなかった状態から。自然に、寝ていた。 それは、事件だった。大げさじゃない。世界が、変わる瞬間だった。 そこから、少しずつ、戻ってきた。 完全ではない。波もある。でも――真っ暗ではなくなった。思考は、止まることがある。夜も、終わることがある。 それだけで、十分だった。 戻れる。 そう思えた。それが、寛解だった。 長い空白のあとに――ようやく、スタートラインに立てた。
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