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スタートボタンを、また君と。

第1章:GAME OVER

すべてが静かに終わったあの日。絶望の底で唯一響いた、現実の言葉。

「少し、お時間いいですか」 呼び出しは、いつもより静かだった。 診察室のドアを開けた瞬間、空気の温度が変わった。 冬の廊下から一枚隔てただけなのに、そこだけ別の季節みたいに重い。 医者の顔は、無表情だった。 優しさも、緊張もない。 ただ――説明するための顔。 「数値が、かなり悪いです」 紙が一枚、机の上を滑ってきた。 CKという項目の横に、見たことのない数字。 2000。 意味はわからない。 ただ、普通じゃないことだけはわかった。 「横紋筋融解症の可能性があります」 初めて聞く言葉だった。 だから、実感がなかった。 風邪でもない。がんでもない。 名前だけが長い、よくわからない何か。 「原因は……クレストールの可能性が高いですね」 その言葉で、一瞬だけ思考が止まった。 クレストール。 医者に勧められて、飲んでいた薬だ。 ――でも、この時はまだ、怒りはなかった。 「とりあえず、服用は中止してください」 淡々とした声。 謝罪はない。驚きもない。 まるで、最初から予定されていた出来事みたいだった。 検査は、年末年始で止まっていた。 二ヶ月。 その間、何も言われなかった。 ――でも。 自分も忙しかった。 検査費用もかかるし、「まあいいか」と思っていた。 だからこれは、誰か一人のせいじゃない。 「このままだと、腎機能に影響が出る可能性があります」 また、よくわからない言葉。 それでも一つだけ、はっきり伝わった。 悪い方向に進んでいる。 そして、その先。 「透析になる可能性もあります」 そこで、ようやく理解した。 ああ、これは――終わったな。 頭の中が、静かになった。 怒りも、不安も、恐怖も、どこかへ消えた。 ただひとつの結論だけが、 水底に沈んだ石みたいに残った。 人生、終わった。 医者は何か説明を続けていた。 食事制限とか、通院とか、今後の流れとか。 言葉は耳に入っているはずなのに、 意味になる前に消えていく。 ただ一つだけ、違和感が残った。 謝罪が、なかった。 薬の副作用。 検査の空白。 結果としての悪化。 それなのに―― 「申し訳ありません」の一言も、なかった。 診察室を出て、廊下を歩く。 足の感覚が、少しおかしい。 現実じゃないみたいだった。 ああ、こういうのって。 もっとドラマチックなんじゃないのか。 泣くとか。 叫ぶとか。 その場に崩れ落ちるとか。 何もなかった。 ただ静かに、 ゲームオーバーになった。 そして遅れて―― 心の底の、もっと暗いところから、ひとつだけ浮かんできた。 「ふざけんなよ」 誰に向けたのかは、わからない。 医者か。薬か。自分か。それとも全部か。 ただその一言だけが、 この日、唯一の現実だった。 ――でも、この時の俺は、まだ知らなかった。 ここが“終わり”じゃなかったことを。
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